玄米ソーリー・小三治サンキュー

昨日、玄米を水につけて、二日間、忘れていた。
炊飯器のふた・閉めていたし、ぎりぎりに起きたり、帰宅バタンキューしてたり、そんな私だったから、忘れていたのだ。


玄米と水、臭かったよ。ううっと、鼻をつまんだ。
濁ってた。水が。


私は、特に玄米が、好きというこだわりは、無くて。
調子が悪いと時は、玄米のパワーに負けるよーな、腹持ちを感じる事・あるしねぇ。


ただ、米を洗うとき、玄米は、水を濁らせないから、その瞬間、目が『玄米好き』って思う。
水を濁らせない、野性溢れる『品の良さ』みたいなものに、おぉ!と思う。
ん?!てか、玄米は、洗わないんだっけ?な?
ご飯を残すときの罪悪感より、玄米を腐らせた罪悪感のほが、罰当たり感まさってるぅー。


先日、プロフェッショナルという、脳学者の茂木なんちゃらさんの番組にでていた、68歳の『落語家・柳家 小三治さん』の顔が、素敵すぎて、テレビに釘付けになった。
生真面目な落語家が、舞台本番まで、何をするか演目が絞れず、舞台に上がる。
『演目が、決まらないのです!』という、本音を喋りながら、お茶をすすりながら、探りながら、20分の時が過ぎる。
そして、そのゆるい流れから、一つの小話に入っていく。
何か、ゆるいタイトルの小話だったよーに思う<題名・忘れた>
そして、話に入っていくと、彼の顔は、どんどん、小話に出てくる人物の『顔』になる。
名人芸というのは、『やろう』とする事より、するりと『やってしまう』こと、『成って』しまう事を見せる事、そして、出来る事なら、魅せる事。


68歳の落語家は、今でも、『お客さんが、喜ぶこと・求めること』『そんな事は、しっちゃいない、俺はやりたいよーにやるだけだ』という思いにぶつかるとしゃべった。
その葛藤が一致する事は、ほとんどないと。
その葛藤を『葛藤』だと、疑問を持ち続けて、落語をするという、『青さ』と『老い』に、私は、釘付けになったのだ。

釘を打ち込むよーに、踏み込むよーに、生きている表現を見ました。ブラウン管のこっちから。


玄米ソーリー・小三治サンキュー