ポット、靖国神社、魂の行方、湯気の安心感

ポットを、家でも、利用し始めます。
起きたら、すぐ、暖かいお湯が欲しくなり始めたので。。。
今、棚の奥に閉まっていたポットを、洗って、水入れて、コンセントに差し込みました。
。。。数分後、音を立て始めます。


小さな滝が、そこにあるかの様な『水』が動いている音が、聞こえ始めて、その音は、ぼーっと聞けば、ほんとに滝の音に聞こえてくる。
『ぐつぐつ』と、湧いていく音は、明らかな『変化』を示す。


今、靖国神社参拝のニュースが、テレビで、よく流れている。
歴史を事実を、キチンと把握出来ていない、知識少ない私は、色んな話を聞いていると、翻弄させられる。
色んな言い分、聞き取り方、話し方。その前後。
シンプルな感情から、発せられる言葉に、気がいくのは、私のフラットなチューニング意識だ。
そこに、自分の知らない情報がインプットされれば、今迄感じなかった部分が、反応し出したりする。
それは、自分の中のコニュニケーションだ。


魂というものは、自由なものだ。。。と。
そこにそれがあると思えば、あるし、無いと思えば、無い。
その魂が一番大事なはずなのに、そこにまつわる、言い方や、対応の仕方、表層や、表現方法の相違から、争いが生じていく。


例えば、身近なところのちょっとした諍いや、好き嫌いというものにも、各々の感覚がによるところが、でかいと思う。
同じ色を指していても、多分濃淡に違いなどがあると思う。
そして、それが一致していないからといって、人の意見を踏みにじる事は、絶対におかしいと思う。



例えば、砂漠にて、暮らす人々の感覚は体験しないと、到底理解出来ないだろうし、ましてや、イスラムの教えなど、成り立ちなど、その根本を知らなければ、意味がわからんみたいな〜突っ込んで『なんでやねん!』の連続である。<日本人は、まだ、隣人を理解出来る、曖昧かつ、自由な感覚が、あると思うけど。>
これは、一つの例えだけど、砂漠に暮らす感覚や諸事情があって、必然的に生まれた知恵を、無知のままの私が受け入れるのも、おかしいけど、知らぬまま、暴力的に否定するのは、さらにおかしい。
『知っている』と『知らない』の差は、魂の問題、『あると思えばある、無いと思えばない』に近い。
こんな風に考えるのは、とても日本的な発想なのかもしれない。
殺伐とした、土地の闘いの必然性。
四季のある〜ゆるりと変化のある土地の風。

完全に分かりあえるなんて事は、滅多にありえない。
そんな矛盾と皮肉を最初から、かぶっている肉食動物であるかのような日本人。けど、だからこそ、無数の魂の流れに忠実であるべきだと感じる。
『死者』への心持ちというのも、千差万別だろうし。
こんな、曖昧な事、書いたら、すげー批判と突っ込みされそうだなだが。
現実認識が甘過ぎると、、。

私は別に、『小泉大賛成』ではないし、歴史についての知識が〜すっからかんだから、甘いと思うけど、どこから、どういわれようが、こう思うという事は、、あると思う。
けど、そういう意味では、つい先日のフセインの裁判見ました?
フセインが、裁判官に、『名前を名乗りなさい』といわれるんだけど、フセインは、ガンとして名乗らない。
『この裁判自体が不当であるのに名乗る必要がない』とか、色んな言い回しで、結局、名乗らぬまま、裁判は終わっていたと思う。
その映像は、善悪・真実・偽り・言い廻し・視線の強さ・醜さ・潔癖さ・不可解さ。。色んなものが詰まったワンシーンで、私は、言葉が出なかった。


ううっす、ポットの音が静かになった。
冷たい水は、電気を利用して、もぉ、お湯になったのだなと思う。
魂の音は、耳を限り無く、澄まさないと聞こえない。
澄ます事に、意識を傾けなければ、聞こえない。
けど、それは知識より、無意識で簡単な事のように思えたりもする。


色々、感じる事はあるけど、私は、断定出来ないでいる。
けど、知りたいと思うよ。事実や歴史の知識を。
この世は、過去で出来ている。
来世は、今の変化の連続で、積み上げられ、生み出されていくのだと感じる。毎分毎秒、止まる時なんかない。
だから、想像して、考える。ずっこけ多々やけど。
現実がある、人各々の思いがある、因縁がある。
結び目は、勝ち負けだけではない、経済的なモノサシだけではない。
けれども『この世』という、時間の中では、精神的なものだけでは、成り立たない。生活も感情も金銭も矛盾もある。『多数決』や『流れ』という、時の裁きもある。
生きているものの思想の中に、死者の思想も混在しているんだ。
だから、何だ!?と言われたら、旨く言えないんでいるんだよぉ、今の私の答。


でも、もぉ眠たい。。。。今が。今が、今日のギブアップ!
明日は、ハードレインで、ライブだ!す。